ナバブロと申します。
月曜日の深夜。今日も素晴らしい一日
一種の瞑想的な感覚

月曜日の深夜
気づけば2025年の夏も終わろうとしている。
記事の更新もいつも頭にはあるのだけれど、
いーろいろと言い訳をして結局こんな感じ。
そんな記事と偶然に出会ってくれるあなたに感謝。
怒涛の夏だったけれど、
こんな感じでそこでの全てを吐き出せるわけもなく、
その時感じたものというのも、
刻一刻と変化していることを実感する。
とにかく元気にやってる。
月曜日の深夜
視野がすごく狭く
この夏もいろいろと言い訳をしながら
自分でやりたいことだけのスケジュールを
言ってしまえばこなしている感じ。
それなりのピンチと、
それに対してのそれなりに道が拓けていく感じ。
その連続。
話にはよく聞くけれど、
「ピンチ」のときというのは、
自分の視野がすごく狭くなっている。
少し時間軸の違う自分とすれば、
大したことでもないことで、
振り返って見れば右往左往してる。
まぁこんなもんなんだろうな。
…という気もしながら、
やっぱり心臓に悪いことは少ないに越したことがないよね。
それでも追い込まれなければだめな性分と、
追い込まれなければ見えない軽視があるというのも、
確かなことなので、
まぁこんなもんなんだろうな。
…と一周回って実感する。
おろそかになっているルーティン
そんな中でこれも何回も立ち戻るテーマ何だけれど、
日々のルーティンや、
生活の質の向上の重要性を再認識する。
これまでは「どうやら良いらしい」なんて感じて、
取り入れつつも、
気づけばおろそかになっているルーティン。
その重要性をひしひしと感じてる。
例えば「瞑想」何かがそうだ。
「恐怖」や「不安」なんてものには
「恐怖」や「不安」なんてものへどう対処するか。
このテーマへの対応が重要な時期は定期的にやってくる(その具体的な対応策が「瞑想」であったりする)
そもそも「恐怖」や「不安」なんてものには、
「実体」と呼べるものがないと言える。
(更に踏み込むと、それらを感じている「自分」という存在すら「実体」がないなんてことも言える)
「恐怖」や「不安」というのは、
いわば「脳(「心」と呼んでも良い)」の一つの反応にしか過ぎない。
それもすなわち「自分の外側」からではなく
「自分の内側」からやってくるというか、
「自分の内側」にしか存在しない。
この「実体」がないものに対して、
わたしたちはそうとうの影響を受けて、
それにより視野が狭くなったり、
思考能力や判断力が鈍って行動出来なくなってしまったり、
いってしまえば「頭が悪くなる」
だからまずはここで書いた通り、
『「恐怖」や「不安」なんてものには、
「実体」と呼べるものがない』っていう事実を認識した上で立ち回る必要がある。
一種の瞑想的な感覚
そんなんでなんで「瞑想」が良いのかといえば、
じっくりと自分の内面と向き合うことは、
すなわち
「今、どうやら心が恐怖や不安という反応を示している」
ということがわかり、
そこから
「どうやらその原因はここにあるようだ」
ってところまで割と最短で目を向けてくれることにある。
「恐怖」に関して言えば
「わからない」とか「知らない」ってことがよく原因になるわけで、
そこまでたどり着ければ、
具合的な対処(行動)にうつることができる。
これはシンプルに精神安定上良いのだ。
また「今、ここ」に集中することの鍛錬が、
本来的に感じなくてもよい「恐怖」や「不安」から、
良い意味で目をそらしてくれる。
没頭している人間は強いけれど、
意図的にそんな状況を作る具体的なメソッドになる。
どちからといえば、
こういうテクニカルな話ではなく、
「空」の体験としての「瞑想」を押したいところではあるけれど、
こういった効果や体感があることは事実なので、
これまた思うがままにタイピングしてみたところ。
(これも一種の瞑想的な感覚かもなぁ〜)
ルーティンをしっかりと。
「恐怖」や「不安」にとらわれることなく、
視野を広くこの秋もしっかりやろう。
そんな感じで今日も散文にお付き合い感謝。
ピース。
世界平和。
ではまた。