日記

「記憶」 20251028

ナバブロと申します。

火曜日の朝。今日も素晴らしい一日

「記憶」

火曜日の朝

変わらず、日々、思うままに生きている。

思うままに生きるっていうにも、そこに一定の制約やルールを、ある種強制力を持って設定するというのも、合ったほうが良いことかなぁと考えたりもする。

とはいえ、

やりたいことだけやる

やるべきことだけやる

と決めてしまえば、その目的達成のために踏ん張らなければ行けない瞬間っていくのはちゃんとやってくるもの。

(勝手に、強制力みたいなものが働いていく。。。不思議)

気づけば信じられないくらいエキサイティングともドラマチックとも呼べる毎日になってる

忘れてしまいがちだけれど、

本来の人生てこうあるべきものなんかなぁとかも思いつつ、

今日も適当に書いていく。

火曜日の朝

エピソード

間が空いてしまうと書こうと思うことが、

一体いつの出来事なのかわからなくなる。

一ヶ月以上ぶりにこの記事を書くのだけれど、

カレンダーを見返す始末。

またゆっくり書こうとは思うのだけれど、

とりあえず一つすぐに思い浮かんだエピソード。

発端

発端は1年くらい前のこと。

わたしは、幼馴染の友人二人とゴルフに行った。最近では年に1、2回行くのが恒例になっている。ゴルフから帰ってきてみんなの地元の居酒屋で飲みながら話をしていた。

昔話に少し熱が入った来た時、友人の一人が

「お前らは、俺の先祖の墓参りもしてくれて、

あの時は本当に感動したんだよね」ってことを、

ポロッと口にした。

その場の雰囲気的には「そうだったよねぇ…」なんて、

相槌を打つタイミングのハズ。

けれど、わたしとしては「(あれ…?そんなことあったっけ?(゚∀゚))」という感じ。

ちらっと、もう一人の友人の顔をみると、どうやらわたしと同じような感じの表情をしている。

空気的にはアレなことを承知で「そんなこと… あったっけ?」ってなことで、三人で記憶のすり合わせがはじまった。

言い出した友人と、もう一人の友人とわたし。一対二の構図。言い出した友人は「俺はあんなに感動したのに、それを覚えていないなんて、友達としてどうかしてる!!!!」と、ちょっと怒り始める始末。

ひとしきり話をしたが詰まるところ、行ったことの証明も、行かなかったことの証明もできないってことで、その件は棚上げ。

後日、いつも遊んでいる友人一人(彼はゴルフはやっていない)を加えて、四人で話をするも明確な答えにはたどりつけなかった。

「それなら、改めて現地行ってみればわかるしょ!」って話を持ちかけて「そうしよう!はっきりさせよう!」って話をしていた。それがここ1年くらいの話。

サプライズ

とはいえ、ここに登場するわたしを含めた四人も(意外とちゃんとしている)社会人だ。

ことの経緯はあるものの「休みの日にみんなで墓参りに行く」なんて調整は、顔を合わせるた度にネタとして話題には上がるものの、なかなか進むものではない。まして、お盆の時期はそれぞれに家族のイベントがあったりで、ゆるゆるとタイミングを逃した。

ただなんとなーく、わたしには引っかかるところがあった。8月の上旬。ゴルフをやっていない友人と二人で飲んだときに、こんな話を持ちかけてみた。

わたし「10月にまた三人でゴルフに行くことになっている。二人の予定は確定できるだろうから、サプライズでそのままお墓参りに連れ出そう」

友人は二つ返事でOKした。約二ヶ月に渡るサプライズ企画が始動した。

「まぁ行って見ればわかるっしょ」

10月のサプライズ当日。サプライズの詳細は割愛するが、無事に友人をおびき出すことに成功し、我々四人は先祖の墓がある砂川にハンドルを切った。午前8時スタート。

道中の車内でも改めて記憶のすり合わせをするものの、いよいよらちがあかないということになる。それも「墓地に行っていない」ってことを証明するのは「悪魔の証明」(存在しないことを証明するのは難しいと言われる)みたいなもので、結局は堂々巡り。水掛け論。

「まぁ行って見ればわかるっしょ」

結果は…

現地に行って確認した結果は…大方の予想どおり「四人で行ったことはない。みんなで初の墓参り」ってところに落ち着いた。

現地に到着した瞬間に、全員の記憶が鮮明に戻り「来てたー!!!!」...なんて、そこまでのドラマチックな展開ではなかったが、改めて「記憶」とそれによって形成される「人生」や「人格」の不思議に目を向けさせられる体験だった。

もしかすると友人の先祖が、わたし達に何か伝えたかった…ってことかななんてこともよぎる。
みんなで仲良く墓掃除をして線香を焚いた。

「記憶」

少しだけ書く。

「記憶」というのはつまり「現時点に置いて、わたしが、過去にこんなことがあったと認識する」っていうことでしかない。

つまり「事実として過去に何があったか」ではなく、

「今、過去をどう認識するか」ってことでしかない。

それが「記憶」だ。

ここで起きてくるのが、たとえ同じ時間や場所を共有していたとしても(していなかったとしても)、

「今、過去がそうだったと思う」ということが、

そのまま「事実として過去に何があったか」ということとして取り扱われるということだ。

バグが生じる可能性がある。

それが今回起きていた。

この話題になるまで、言い出した友人は「お前らは、俺の先祖の墓参りもしてくれて、あの時は本当に感動したんだよね」という世界で生きていたはずだし、

わたしを含むその他三人は「なんのこと?はて?」ってことである。

これに関して、事実がどうだったか…ってことを掘り返すことや、何が正しいかどうかという議論自体に正直、あまり興味はない。

かなりぐっと来る題材

取扱いたいのは「同じ時間や空間を共有していると思っているわたし達は、実は一人一人まったく違う世界線で生きている可能性がある」っていうテーマ。

相対性理論、量子力学、宇宙、仏教の空…みたいな感じで「自分は感覚的にはこう信じている」っていうことが「揺らぐ瞬間」に脳汁が出るわたしにとって、かなりぐっと来る題材。

この先考えても、少なくとも2025年のハイライトになる一日。

取ってつけた感が満載だけど、いつも世話になっている、ずっと友だちを続けてくれる彼らに感謝。

ピース。

世界平和。

ではまた。

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