日記

「ぐっとくる」ポイント 20230903

2023年9月3日

nabablog と申します。

日曜日の朝。今日も素晴らしい一日。

「ぐっとくる」ポイント

日曜日の朝

昨日は知り合いが出るピアノのコンサートに顔を出し、

そのあとはカウンターアクションのモダングッドデイズのライブに行ってきた。

バンドをやっていない3、4年の間に

いろんな種類や幅で音楽を聴けるようになったんだけれど、

昨日は夕方から夜中まで音楽と触れることができたいい時間だった。

いわゆる「クラシック」から「パンクやハードコア」まで。

少し前は「それぞれにいい」って感じでとらえていたような気がするけれど、

いまは「音楽」という一つのジャンルとして「好き」とか「いい」とかって感じでとらえられるようになって気がする。

そうなってくると演者としてステージに立つときにも、

アプローチの仕方が変わってくる。

「クラシック」を演じる時にいわゆる「パンク」のノリがあっていいのだろうと思うし、

その逆もあっていいのだろうとも思う。

整理としてジャンル分けや名前をつけることは便宜的にあるとしても、

どんな音も「音楽」として、

楽しめるようになるときっと向き合い方が変わるよね。

(なーんか伝わるかなwww)

今日は自分たちのバンドのライブ。

岩見沢に言ってきます。

日曜日の朝。

何に「ぐっとくる」のか

何に「ぐっとくる」のかということが、

言語化できていると相手との距離は近づく気がしている。

わたしはよく「ぐっとくる」という表現を使うのだけれど、

これはよく伊集院光さんとかも使っている表現で、

「感動する」「心が動かされる」「琴線(きんせん)に触れる」とかいう意味とわたしは解釈して(笑)使っている。

たとえば本を読んだり、

ライブや映画を見ることで「ぐっとくる」なんてことがある。

生きていて起きる大きな出来事からでも、

日常のささいなできごとからも「ぐっとくる」こともある。

なかなかこの文章だけで表現するのが難しいけれど、

自分が「ぐっとくる」には、

ある種のパターンがあるようだ。

このパターンというのは、

そのシチュエーションのことではなく、

例えば「ライブをみる」ということと「日常のささいなできこと」でも、わたしにとって「ぐっとくる」共通のポイントを持ち合わせている可能性があるということ(抽象的だなーすんません。それでもザクザクつづけるwww)

この

『わたしにとって「ぐっとくる」共通のポイント』

を持ち合わせてきることをここでは「パターン」と呼んでる。

トレーニングとして言語化してみる。

「ぐっとくる」ポイント

例えば、

わたしが「ぐっとくる」ポイントというのは、

「創り手側本位で創り上げられたもの触れたとき」ときにあったりする。

ある意味では「自分勝手なもの」に触れた時に「ぐっとくる」ということがある。

映画(最近ではジブリの新作が当てはまるかな?)やハードコアなんていうのが、まさに当てはまるかな。

ある意味「受け取りて側」の要望は無視して(拒絶するほどではないとしても)世の中に放り投げられるものに「ぐっとくる」なんてことが多い。

やはり「独自の世界観」を持っている人に魅力を感じるし「魅了された」とか「とにかく好き」という理由で何かに取り組んでいる(そこに「他者に理解されたい」とかいう打算がない)とかいうのも好き。

なんか伝わる気がしないなー今日の記事はwww

基本的には「サブカル好きのお年頃の女の子のハマりそうなもの」が好きと思っていただればいい(乱暴というか諦め)

自分本位

そして(まだ続くんかい!)

開き直るという意味ではなく「自分本位」という生き方を前にしたとき、

なんとなーく他者の顔色をうかがうことが染み付いてしまっている自分は、衝撃を受けるのだと思う。

最近、意識するようになって「自分本位」ということを生活に落とし込める様になってきて、

変わった部分もあるにはあるけれど、

まだまだ精進が必要。

人生の罠

これは人生の「罠」のようなことだと最近思っている。

「罠」というのは「自己犠牲的な生き方が美化されて、そこだけにフォーカスされてしまう」ということ。

つまり「自分のために生きる」という生き方には価値がなく、

「他者のために生きる」という生き方には価値があるという考え方だ。

語弊(すでに、めちゃめちゃ生まれていると思うけど)がないようにしたいところだけれど、

幸せな人生を生きるには「自分のために生きる」と言う要素は外せないポイント。

そして「自分のために生きる」というのは、

なにも「ヒトのことを考えずに好き勝手にやる」という意味ではない。

「自分のために生きる」というよりは「自分の人生を生きる」といったほうがいいのかも。

その意味での「自分本位」「主体的」な生き方を実践するということ。これが重要。

このあたりに気づかずに「自己犠牲的な生き方」をしても、

自分がすり減っていってしまうだけで、

そこには幸せな時間は待っていない。

(ここまで我慢して読んでくれたあなたには、1mmくらいは伝わっているといいなぁ泣)

まとめ

わたしには宗教(キリスト教「親が牧師」www)という背景があったり、なんとなーく人に引け目を感じやすい性格が災いしたりで「自分本位」で物事を考えることについて、これまでの人生はあまり時間をかけてこれなかったという弱点がある。

だからきっとそういう生き方を目の当たりにすると、

「ぐっとくる」ことが起きたり「自分もそういう風に生きてみたいな」と思ったりするのだ。

そして最近このことが自分の頭では整理することができたので、

あとはその思考を日々の生活で表現しようと思っているなうです。

まとめると

・「ぐっとくる」パターンがある

・「サブカル好きのお年頃の女の子のハマりそうなもの」が好き

って感じ(雑!!!!)

では準備をして岩見沢に向けて出発します。

あなたもぜひ良い日曜日をお過ごしください。

読んでいただきありがとうございます。

ピース。

世界平和。

ではまた。

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