日記

お年玉 20240128

2024年1月28日

ナバブロと申します。

日曜日の夜。今日も素晴らしい一日。

お年玉

日曜日の夜

これまた、

良い週末を過ごした。

わたしには母(一昨年亡くなった)の母さん。

つまりわたしにとっての「ばあちゃん」が釧路にいる。

この2024年1月で御年95歳になる。

誕生日の当日は居合わせることが、

出来なかったのだけれど、

この週末は父、姉、弟とわたしの4人で釧路にいってきた。

誕生日会をして、

どちらかというとごちそうになってしまった感じなのだけれど、

なんというか「ホッ」とできる時間で、

普段使うひとつ屋根の下に住む「家族」という意味よりは、

少し広い世代を超えた意味での「家族」というものについて考える時間だった。

やるべきことが山積みだと、

目標や目的が少しみえずらくなることがあるけれど、

あらためて自分が目指すべきものや、

山を登る過程で大切にすべきものを確認することができた。

札幌と釧路の往復の車の移動も、

天候にも恵まれ、

事故なくスムーズで総じて感謝。

みなさんはどのような週末をお過ごしでしょうか。

日曜日の夜。

人間関係とは距離感

「人間関係とは距離感」と言われる。

そこにある関係性のひとつひとつの「呼び方」や「名前」をつけることは、

正直あまり意味がないと最近よく思う。

たとえば友人といっても、

距離が近い友人もいれば、

そうでもない友人がいる。

いつも会う友人もいれば、

時々しか会わないけれど、

会う頻度とは関係なく深くお互いの価値観を理解している…

なんていう友人もいたりする。

だからそれぞれを「友人」という枠で一括りにすることは、なんというか、あまり丁寧な感じがしない。

これと同じように、

人間関係を表現するカテゴリーでいうと「家族」や「親戚」という枠が存在する。

家族の形はいろいろ

さっき「友人」の例で書いたように、

この「家族」「親戚」というものにも、

それぞれの距離感が存在している。

「家族の形はいろいろ」といわれるけれど、

本当にその通りだ。

それでも「家族」というキーワードを使えば、

あなたの家族とわたしの家族の共通点や違いを

明確にしていく作業は進みやすい。

これまでも人間関係をテーマにすることは、

何度もあったけれど、

今週末にばあちゃんにあって脳みそが高速回転しているので、

勢いそのままに書いていく。

ばあちゃんの「凄み」

95歳になるわたしのばあちゃん。

彼女は当然わたしに物心ついたころからばあちゃんなんだけれど、

実感としては「ばあちゃんが歳をとる」という感覚は、

わたしが20代後半くらいで止まっている(伝わるかな?この感覚)

わたしが20代後半くらいの時に持っていたばあちゃんのイメージと、

私が35歳になった今、ばあちゃんに対して持つイメージがあまり変わらないという話。

80歳→95歳のばあちゃんはあまり変わっていない。

(なんと表現していいかわからないけれど…「ずっと若いまま」とも言えるし「ずっとお年寄り」っていう感じ。伝わるかなー)

なんだけれども、

面白いもので自分自身が歳を重ねて、

少しずつ見える世界が変わると、

日に日に、ばあちゃんの持つ「凄み」が増してくる。

ばあちゃんは変わらないとして、

自分の方がそのばあちゃんの「凄み」が理解できるようになってきた。

人生の機微

人生を長く生きれば生きるほど、

当然「人生の機微」にふれる機会は多くなる。

ばあちゃんについて、わたしが知るストーリーなんていうのは

ほんのごく一部かもしれないが、

やはり95年…やや100年という時間の積み重ねは本当にすごいものだ。

「人生の機微」を語る上で、

人間の生き死にというのは避けては通れないけれど、

兄弟や旦那さん(わたしのじいちゃん)、また自分の娘(わたしの母)、また友人の死という体験だけを見ても、

やはりばあちゃんの百戦錬磨感には、

圧倒されるばかりだ。

人生の機微・・・人生においてまま生じる、表立って扱われることの少ない微妙な趣や人情などを、よく知っているさま(Google調べ)

ばあちゃんは全部わかっている

ここで「家族」って不思議という話しになるんだけれど、

家族同士で「相手のことがわかる」ということについて、ある種の遺伝子レベルでの何かが、

働いている気がする。

95歳ともなれば、

当然、目や耳は弱ってくる。

たとえばこの週末釧路にいったわたしは、

特に何か「最近あった出来事の詳しい内容」や、

さらには「価値観の変化」なんてことについて、

ばあちゃんと膝をつめて話し合うなんてことをしたわけではない。

それでも不思議なのは「ばあちゃんは全部わかっている」という、

安心感や確信があること。

わたしが何を言おうと言わまいと、

そこに、さして問題がない。

ばあちゃんには、全て分かっているし、伝わっている。

すべてお見通しだ(これって親に対して持つ感覚とも似ているかな)

まかり間違うと「じゃあ、なんで会うんだっけ?」っていう議論になるけれど、

それはもちろん違っていて「会うことに意味がある」

これが、

今のばあちゃんとわたしの関係性。距離感といえる。

今回も一緒に過ごした時間の長さは、

きっと半日ぐらいのものだけれど、

これでまた十分に教えてもらった。

さっき札幌に戻ったところで、

ばあちゃんにはメールを入れておいた。

(ちなみに、うちの95歳のばあちゃんは見事にメールを使いこなす!)

今回もありがとう。

ばあちゃん。

お年玉

ここに書くエピソードは、

そんなに強烈なものではないけれど、

わたしの将来に対するイメージが一つできたという話。

今回は、ばあちゃんのところに、

わたしを含めた姉弟といとこ夫妻があつまった。

みんなが揃ったとこで、

ばあちゃんからうやうやしく、

その場には集まった「そろそろみんなアラフォー」という孫たちに、

「お年玉」が手渡される。

ただそれだけのことではあるんだけれど、

シンプルにこんなイメージがわたしの頭に浮かんだ。

それは、わたし自身も

「95歳になって35歳の孫にお年玉を渡す

そんな歳の重ね方をしたい」

というものだった。

平たく言えば、

ばあちゃんにとっては

「いつまでたっても孫は孫」ということだと思う。

そこには今わたしがどれくらい稼いでいるとか、

わたしが良い人間であるとか悪い人間であるとか、

そういった評価なんてものは一切入る余地がない。

「いつまでたっても孫は孫」ってこと。

「わたしが良い孫だから」という条件付きではない、

無条件の愛の形がある。

わたしの考えていることなんて、

とっくに通り過ぎたところにいるばあちゃんが繰り出す「お年玉」という、関係性を再確認する儀式。

「あぁやっぱりわたしはばあちゃんの孫なんだ」と、

認識できる瞬間(ここで語ってるのは「お金」の話ではないよ!)

ありきたりな情景かもしれないけれど、

なんだか、ひと際、感情が動いた。

これをあんたはやっていくんだよ

最近よく思っていることだからなのかな。

せっかくの人生であれば、

大切な人に無条件の愛を、

なるべく具体的な形で手渡したい。

それをニコニコしながら、

うれしそうに具体的な形で手渡してくるばあちゃんに、

わたしは心を鷲掴みにされた。

「これをあんたはやっていくんだよ(ニコッ)」って感じ。

ここのところ自分が取り組んでいるテーマにも、

バッチリハマりすぎていて、

正直、これ以上なんにも言うことなしだ(その割に長文なのはごめんなさい)

ここで宣言しておくべきことは、

「わたしもそれをやる」

今のわたしに出来ないとしても、

できるように歳を重ねていく。

「お年玉」って誰が始めたものなのかもわからないけれど、

きっと手渡す側になって、

さらにその深みが増していくんだろう。

ちゃんと深めていくことができるように、

また今日からやっていく。

現場からは以上です。

読んでいただきありがとうございます。

ピース。

世界平和。

ではまた。

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