日記

キャッキャキャッキャ 20240410

ナバブロと申します。

水曜日の夜。今日も素晴らしい一日。

キャッキャキャッキャ

水曜日の夜

今日は所要で大通りまで自転車で往復。

片道30分っていうところのサイクリング。

そろそろ筋トレも再開しなければ…と思いながら、

数ヶ月が経過していている自分にとっては、

楽しく体を動かせるということで、

なかなか良い時間の使い方。

ここのところ街なかでは、

迷惑駐輪の撤去、取り締まりも厳しくなっていて、

どこにでも自転車を停めておけるってわけではない。

去年から自転車で出かけるようになり、

いろいろ駐輪できる場所のデータもたまってきていて、

「(あそこに行くのであれば、あそこに自転車を停めればいいなー)」なんてことも、

すぐにイメージできるようになってきた。

んでもって順調に目的地にたどり着いたわけだけれど、

そこで1時間程度の待ちが発生することが、

その場で判明。ちょっとしたハプニング。

「どうしようかなー」と考えるやいなや、

「そういえばこの前バーで知り合った方のカフェがこの近くにあったはず」ってことで、

行ってきた。

大通りにある「バルデラマ」という、

コーヒーとお酒やスウィーツが楽しめる店。

そこでコーヒーを2杯いただきながら、

この前知り合ったマスターと結局一時間以上話し込んだ。

シンプルに楽しかった。

そのあと店を出て用事もこなして、

夜はバンドのメンバーとスタジオ練習兼MTG

今日は昼頃のスタートだったけれど、

これまたかなり充実した一日だった。

かっちりした予定をこなす日々というのも悪くないけれど、

今日みたいにちょっとしたハプニングと、

そのあとの対応と素敵な出会いで、

また自分の好きな場所が増えるというのは、なかなか良い体験。

「ハプニング」っていうと、

良くない意味で使われることも多いけれど、

今日のようなハプニングであれば、

ぜんぜんというかむしろウェルカムだね。

水曜日の夜

序盤の序盤

なるべく今の自分にとって、

必要なことだけで生活を、時間を、埋めるようにする。

そのための環境作りには、

正直、ある程度の犠牲を払ってでも取り組むべきだと、

ここのところよく考える。

特にここ数日の自分の生活を振り返っても、

少し下っ腹に力を入れて行動をした結果、

まとまった時間を手にいれることができたという事実がある。

他者にどうみられるとか、

正直良くわからないが「普通の感覚」っというやつからみてどうかとか、

こういったものを一旦脇において、

「今の自分にとって、必要ことは何か」と考え、

それを得るために行動することの重要性を再認識した。

自分と向き合う時間も確保することができて、

当然「この先どうするか」と考える時間が増える。

すると「今、自分に切れるカードは何か」という思考に入り、そこで自ずと「これまで自分が築いてきたもの」というのにも目が向くようになる。

まずはわたしに関わってくれる方々への感謝からではあるんだけれど、なんやかんや蛇行運転やだらだらと寄り道をしながらも、一歩一歩というか、半歩半歩というかでも、変化と成長をしていることも分かってくる。

これは本当に体験した人にしかわからないという領域。

今ある結果は、なんとか自分を奮い立たせる環境に身を置き続けていることの成果であると、事実を事実として認める。

とはいえ、まだ半ばも、序盤の序盤。

日々生かされていることへの感謝を、

他者への具体的な価値提供という形でお返ししていけるように、

やっていきたい。

「老害」というテーマ

路線は少し変わって、

今日行ったカフェのバーのマスターと話しをして、改めて整理できたこと(当然「価値観」の話しだよおぅ!)

・ある程度の歳になって思考のパターンができてくるよねという話

・一方で、歳を重ねて柔軟な発想や感覚、新しいでものの考え方を受け入れづらくはなるもんだよねという話

これは改めて「自分も気をつけなきゃなー」と感じた。

いわゆる「老害」というテーマで、

確実に自分もその領域に足を踏み入れているんだなーと再認識した。

誰でも、

自分の生きて来た道は「正しい」と思いたいし、

自分の生きて来た時代は「良いものだった」と言いたいという気持ちは、

少しぐらいはもっているのかと思う。

ただし、間違ってはいけないのは、

「わたしが持っている私の生きてきた時間に対する認識」すら「一つの価値観にすぎない」ということ。

わたしの認識が周囲の人間、特に自分とは世代が持っている感覚とは、全く違う(可能性があるものである)ということは、感覚というよりはしっかりと理性的に、理屈として落とし込んでおく必要がある。

・自分はこうやって教えられてきた

・こうやったら成功した(結果を得られた)

・これをやれば相手は喜ぶだろう

等々の「常識」(←この表現もいかがなものかですが…)と呼ばれる類の事柄。

これは「特定の世代」によってそれぞれ違うし、

言ってしまうと「特定の世代」という前提条件があって、

初めて「共通言語」として会話が成立する。

ここをおさえておかないと、

なんとなく「世代」を飛び越して発した言動が、

暴発し多重事故を起こして、

今でいう「ハラスメントや!」って話しが、

どこもかしこでも起こる…って状況が生まれる。

このへんはシビアだけれど、

やっぱり気をつけなれば行けないんだよね。

特に先を生きる世代としては。

キャッキャキャッキャ

「スタンスを取ることのリスク」については、

前回の記事でも書いたけれど、

この「老害」の話しも、これに通じるところがある。

だから

日常的な会話や、

もう少し広い話しをするのであれば「人間関係の構築のプロセス」には、

「共通言語」をお互いに整理する作業が、

必要になってくるんだよね。

たとえ世代や見ている世界が違う者同士でも、

「これに関してはそうだね」と頷くことができる

「共通言語」があれば、

事故を防ぐだけではなく、

お互いの違いを相互の欠けを補い合うだけではなく、

お互いの強みを最大限に効果的に活用できるような、

関係性を作っていけたりもする。

文字通りキーワードは「共通言語」だ。

表面的な違いや価値観のズレに対して、

いちいち首を傾げているのでは時間がもったいない。

物事の本質的な部分や、

たとえば「人間がいつの時代も繰り返してきたこと」から学ぶことができる汎用性の高い傾向の分析から、

原則と呼べるものを抽出して、

それを生活に適用して行く作業とでも言うのかな。

こういうことをやっていかなければ、いかないんだよね。

特に歳を重ねて来た今は。

またまたいろいろ書いたけれど、

「世代とかも通り越して友達を作って、

みんなでキャッキャキャッキャ楽しくやりたい」

っていうのが今日のまとめ。

現場からは以上です。

読んでいただきありがとうございます。

ピース。

世界平和。

ではまた。

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