日記

原因→結果 20240228

ナバブロと申します。

水曜日の夜中。今日も素晴らしい一日。

原因→結果

水曜日の夜中

昨日は幼馴染の友達と飯を食べた。

彼のことや自分のこと。

少し話しをした。

やるべきことややりたいこと。

それが今の時点で明確であっても、

そうでなくても、

こうやって考えてるというのは、

何につけてもいい。

いつも未来というのは「ふわっ」とイメージしている部分、

不確定の部分、見えない部分はあるけれど、

そこにフォーカスしてみると見えてくるものが必ずある。

そしてそこに目を向けるだけで、

現時点の自分の状況や、

置かれている環境がどのようなものかも、

立体的にみえてくる。

まずは可視化する。

これをやるだけで目の前のタスクに取り組みやすくなる。

これをやっていない人も意外と多い。

数年の前の自分もそうだった。

この可視化自体はそれほどコストがかかるものではない。

だから気付いた人は

「なんでもっと早く気づかなかったんだろー」って

言う人も多いのだけれど、

「今日が一番若い日」ってことで、

気づけて良かったよねという話。

水曜日の夜中。

「理屈」で理解する

ものごとには順序がある。

何事も一足飛びにはいかない。

こんなこと分かりきったことであるけれど、

日々の自分の行動が、

この原則にそった効果的なものであるか振り返ると、

必ずしもそうではないことがある。

それはまさに

何の準備もせず都合のいい結果を得ようとするようなもの。

これを理屈で理解してもいいし、

感覚で理解してもいいけれど、

いずれにしてもこのことは深く、

自分の行動の原理に組み込む必要がある。

いろんな人と話しをして

自分は「理屈」で理解するほうが、

性に合っていること(つまり、理屈っぽい男ってことな!怒!左脳で生きてるんです!はい!)がよく分かってきた。

(わたしの周りでは「感覚」で理解している人も多い)

いつも通り少し言語化してみる。

原因→結果

ものごとには原因があって結果がある。

これは変えられない原則。

原因→結果

この「→」の向きはいつも「正しい」

まずはこれを念頭に置く。

(もちろん原因と結果は密接にからんでいるので、

結果から原因を推定することもできる)

だから「結果」をえたいのであれば、

「原因」にアプローチする必要がある。

原因という意味合いを含めて、

わたしが好んで使う言葉は「土台」だ。

「土台」から連想されるのは、

建物を立てるイメージ。

先ほどの原因→結果の話でいえば

土台→建物という順序でととのえていく必要がある。

結局、土台がしっかりしていないと、

あとあと建物はグラグラするし、

長く維持はできない。

最悪ぶっつぶれてしまう。

どんな土台が必要になるのか

「土台が大切ってことがわかった」のであれば、

「土台をととのえる作業」に着手するのだけれど、

ここで「んで、何をすればいいんだっけ?」ってことになる場合がある。

そして手が止まってしまう人が多い。

そこで目を向けるべきは

「どんな結果をえたいのか」

先程の建物のイメージでいえば

「どんな建物を建てたいのか」

「どんな完成形を目指すのか」ということ。

ここを明確にすることで

「どんな土台が必要になるのか」

つまり土台に

・どのぐらいの強度を求めるのか

・どのぐらいの広さを求めるのか

・どんな場所を選ぶことを求めるのか

ということが明確になってくる。

あなたが建てたいものが、

一戸建てなのか、マンションなのか、

人が集まる大きな商業なのか、、、

何を目指すかでどんな整備をしなければいけないのかが明確になる。

そうすれば

「今日あなたがすべきこと」が

わかってくる。

まずはざっくりこんな感じ。

友達との将来の話しを振り返って、

あらためてこんなことが頭に浮かんできたので書いた。

・完成形から今どんな土台の整備をするのか

・ものごとの順序(原因→結果、土台→建物)

このあたりの理屈は整理しておいて損はない。

人生っておもしろいよね

ここまで理解してもらった上で、

「人生っておもしろいよね」という話しを最後に少し。

冒頭にも書いた通り、

人生には『不確定の部分、見えない部分』がある。

多くの場合はこれから起きる「未来」についてなのだけれど、

実は「過去」にもある。

ちょっと「?」という感じかもだけれど、

特に突飛な話しではないのでご安心を。

前提として「事実」は変わらない。

過去の出来事は「事実」として起きたこと。

その「事実」は、

「原因と結果」でいうところの「結果」にあたる。

ここで言いたいのは

過去に起きた「事実(結果)」の「原因」は、

つまるところ多くの場合、推測の域を出ない。

たとえば

「地球全体の気温が上がっている」という「事実」があったとして、

その原因を完全に特定するのは無理という話。

「多分、温室効果ガスのせいだろう。温室効果ガスの排出量を減らば、気温は下がるのだろう」(分析と仮説)

ってところまでは進められるとして、

あとはその仮説を検証するために、

実際に策をうち、その効果の検証をして、

効果があると認められて、

初めて「仮説が正しかったのかもね」ってことが分かる程度。

突き詰めると、

これも分析の精度が上がり情報の信頼性が上がったにしても、

推測の域を出ることはない。

これは過去ではなく未来でも同じことがいえる。

結果を意識して原因にアプローチする。

そこでえられる結果が、

想像を遥かに越えるものだったり、

もしくは全く予期しなかった方向性の答えが出たりする。

ここにも必ず原因と結果がある。

結果の原因となる全ての要素を自分が把握できるわけはないし、

先人がやったことを自分が同じようにやってみたところで、

環境や時代が違えば、えられる結果はまったく違うものになる。

不確定の部分、見えない部分

ここに『不確定の部分、見えない部分』の本質が見えてくる。

だから「人生っておもしろいよね」という話。

「こういう一戸建てにしよう」と思って土台作りを始める。

ただ土台作りをしているうちに

・もっと大きい家がいいな

・もっと奇抜な家がいいな

・やっぱりでかいタワーをつくりたいな

なんてイメージが湧いてくる。

そしていざ出来上がった建物を眺めてみれば「想像と全然ちがうやん」ってことが、

あったりする。

だから「人生っておもしろいよね」という話。

『不確定の部分、見えない部分』をもっと楽しめるようになると、

世界の見え方が変わる。

おもろい。

現場からは以上です。

読んでいただきありがとうございます。

ピース。

世界平和。

ではまた。

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